※綾小路が可哀想です。
―――夜は昼間と違って閑静さが酷く伝わる。
夕食の時間に近い帰りだからだろうか、と思いつつも平日の昼間は仕事で家を空ける為にどのような光景を映し出しているかは把握していない。代わりに、休日の昼間はマンションの傍にあるの公園ではしゃぐ幼児や集まる主婦の語らい場として息づいていることだけは知っていた。
コンクリートで出来た無機質な床に、階段に、黒い革靴を押し付けると少しの音が壁越しに反響する。薄く輝く蛍光灯の光を頼りに廊下に並ぶドアのナンバープレートを一つずつ心の中で数えていく。
「ああ」
自分の家に着き、小さな門を開けてチャイムを鳴らして暫く反応が返って来ない所である事に気付く。今日から家内、妻子は保育園で知り合った人達と土日交えて三日ほど旅行しに出掛けていた事に。軽く一つ息を吐いて、ビジネスバッグから家の鍵を探した。
「何処に置いたかな…」
幾つかの小さなポケットから探すのに苦労しつつも見付け出した鍵を、外気で冷たくなったドアノブに付いている鍵穴に合わせた。難なく入った後は、少しの力を入れて手を回す。そうすると―――。
「みぃーつけた」
がちゃりと、鍵の外れる音。
と、同時に反響し合うマンションの中で音もなく耳元で囁く声が身を凍らせた。
*
玄関前まで歩くよう促されたのでその通りにすると、後ろから続いて入って来てそのまま後ろ手で扉を閉めてご丁寧に鍵まで掛けられた。抵抗しようにも背中に突き付けられた切っ先が邪魔をする。どう動いていいか分からず、立ち往生していると後ろから片手を伸ばして黒布越しに顎をなぞってきた。
「卒業したらいなくなっちゃうんだもん。……久し振り、『行人』」
「……、……、……」
名前を呼ばれた。途端、冷え切った手で爪先を掴まれるような感覚がした。そして、じんわり上へと拡がっていく。
「とある日偶然、ぶらついてたら君を見掛けてね。まさかと思って後を付いていったら随分と懐かしい鳴神学園に入ってくじゃない?校門前にいた用務員さんに知り合いだって言うと会えない代わりに色々聞かせてくれたよ。音楽教師やってるんだって?」
個人情報を一つ一つ繰り出す奴の口を塞ぎたい衝動に駆られ、顎にかける手を顎で押し返した。その反応がえらく気に入ったのか次の情報を紡ぎ出す。
「で、君が学園から出てくるまで待って、―――その後は、君の想像に任せるよ」
「…………尾行、したな…………」
「とりあえずご近所とのお付き合いが良くてよかったよ。旅行に行くって話、通り過ぎる時にするっと耳に入っちゃったから」
区切って。
「酷いね。勝手にいなくなったと思ったら、勝手に結婚して、勝手に子供できてるんだもん」
「……お前には、関係ない……ことだろ」
「…………酷いね?『綾小路』」
人の許しもなく勝手に名前で呼んでいた奴が、名字に切り替えるのは最終警告に等しい。逃げないと危険だと本能が告げていても、足を踏み出すことは出来ない。
したら―――死が待ち構えているだけだと否でも分かっていたからだ。昔に覚えてしまった恐怖が今、完全に身体の底から這いずり上がってきた感触に、目眩し掛けた。
*
寝室は何処、と聞いてきた奴を振り解く方法が無いまま月明かりで薄っすらと見える廊下を歩いていく。整頓されつつも生活の溢れたリビングキッチンを通り過ぎて曇りガラスが嵌め込まれているドアを開けると幾つかの個人部屋が立ち並ぶ。その一つのドアの前まで辿り着くが、この後どう取ればいいのか分からず視線を少し後ろへやる。と。
「ヒッ!」
急に向きを前に変えられたと思う暇もなく、胸倉を掴まれたまま強引にドアを開け放ち、ベッドへと重力を掛けて顔の数ミリほど横にナイフを翳したまま覆い被さってきた。狼狽した顔を向けると、愉しげにナイフの峰で口を覆う黒布を器用に剥ぎ取る。乱れたスーツの中からネクタイを掴んで上半身を起こさせる。
「口、開けて?」
「……、あ、ぐっ」
「ん」
「ン、ンン、っ!」
言われたとおりにすると口の中に舌ごと侵入してきた。その生温い感触に全身が粟立ち、舌で舌を追い返すとより一層身体を傾けて押し返された。更には絡み取り、それぞれの唾液が一つに混ざり合う。
「ふ、む、ぅっ」
「こうやって触れ合うのも久し振りだね」
「はー……はっ、はーっ……っ」
余韻の残った口の中を味わう風間とは裏腹にべた付く唾液を吐き出してしまいたかったが、既にその中身は喉の奥に沈んでいる。吐き出すと踏んでいたのか、口を離す前に深く舌を突き入れられて唾液を押し込まれる形になったからだ。代わりに口の端から垂れた透明な一筋を強く拭き取る。
「!」
目を逸らした隙に足首を引っ張られ、仰向けに倒れる。ベッドが衝撃吸収の役目をしてくれたお陰で怪我は無かったものの軽い脳震盪を起こした。首を振ってぼやけた視界を戻すと足首に絡んだ手は黒いズボンの裾に刃を添えていた。
「おい!何して……!」
「ははは、動くと切れちゃうよ。危ないからじっとしててね」
びっ、びーっと手馴れた動作でズボンの布地を切り裂く音と優しげに注意する声が新たな恐怖を生み出す。風間の言うとおり、間違いなく少しでも動けばナイフの切っ先が肉を抉る。護身用の武器を持たない身では何も出来ず、小さく震えながら布地がただのゴミになるまで見守った。
「……っ……」
「はい〜、おしまい♪」
図工で出される紙を嬉々として切る少年の如くズボンと、ついでに下着を切り裂く作業を終えた。ナイフを折り畳んで、横に投げ出すと再び乱れたスーツに皺を作ってネクタイを引っ張り上げる。あまりの息苦しさで呻いているとスーツを掴んでいた筈の手がつつっと剥き出しの太腿を撫でた。
「足開こうね」
ネクタイで身体ごと引っ張り上げられる方向と逆に、そのまま股下の間に親指を捻じ込んで強引に押し開いていった。興味を下部に切り替えた風間はネクタイから手を離して、性器に触れる。
「げほっごほっ、っう、―――あ!」
ぎゅっぎゅっ柔らかく握り込んで、先端を親指の腹で円を描く。ピリリと小さな電気が走る。身を強張らせると緩やかに上下へ振られ、じわりと性欲が拡がり出す。風間の言いなりになりたくなかった為、唇を噛んで耐え忍んだ。
「……うっ」
「あんまり感じてないね、んー……何か考えてる?」
「………………」
お前だ、なんて口が裂けても言えない。無理やり教え込まれた快楽よりも積み重ねで大きくなってしまった恐怖心が遥かに強い。しかし、そんな弱さを見せるのは自身のプライドに反する。
「まあいいや」
少し身を浮かせて、ズボンのポケットから小さな筒を取り出した風間は蓋を開けて手に垂らす。ついでにと性器を上向かせ、その真上から残りを注いだ。
「つっ、つめた…………この、匂い」
「懐かしい?」
よく使ってたローション。液体塗れになった手を広げて笑う風間にぞっとし、反射的に足を閉じようと動いた。無自覚にやってしまった失態に血の気が引いたが、さして気にした風も無く、ひたすら笑みを絶やさない。
「ねえ、知ってる?」
黙って見詰めてくるより、何か言われた方がまだ良い。そう思っただけに、急に話題を振られつつも少し安堵を覚えた。その無防備な所を突いて、すーっと恐怖を注ぎ込んでくる奴だということを今の今まで失念していた。
「女子供ってすごく柔らかいんだよ」
過去の出来事が一気にフラッシュバックされる。溢れ返る赤い世界。奴は―――そうだ。いつだって、嘘を付かない。
「……………止め、ろっ」
「え、何?聞こえなかった」
「俺の、家族に、手を出すなっ…!」
「君の努力次第だね、先ずはその足」
「―――――」
「……分かるよね」
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