マンションの一室。綾小路は貴重な休日を思う存分、満喫する予定を立てていた。いつも起きる時間を放置して暖かなベッドの中で睡眠を貪る――その筈だったのだが、唐突に訪れたチャイムの音が目覚まし時計の代わりを務める。
「誰だ……こんな朝っぱらから」
教師生活で溜まった疲れが完全に抜け切っておらず、乱れた黒髪を正さず不機嫌を露にした。ぼやけた視界を取り戻すため、目を擦って玄関前にある覗き窓を見るとすっかり見慣れたマンションの外側だけが広がるだけで、誰もいない。変に思って首を傾げると、また鳴り響くチャイム音に身を竦ませた。
(……不審者か?)
悪魔は信じても幽霊は信じない故、不審者という文字が真っ先に浮かんだ。そもそも此処はオートロック付きマンションだから、共用玄関のチャイムでなく玄関前のチャイムが鳴るということは……。そこまで考えて背筋が凍る。警察に通報する前に再度、隅から隅まで注意深く覗き込むとドアの下で旋毛が見えた。
「え、祝君?」
小さな来訪者に驚いて、黒で統一したルームウェアなのもかかわらず急いでチェーンロックと鍵を全開にすると頬を膨らました祝が勝手にドアを開けた。
「此処、オートロックなんだけど……」
「出るの遅いよ!!後、此処の人が通った時に入った!」
「ああ……」
悪知恵を身に付けたことを自覚していない祝は、ふんぞり返って言う。オートロック付きとはいえ、絶対安全ではない部分が此処で暴かれた。悪用される日々も遠くないなと溜息ついて部屋に入るよう促す。流石に膨れっ面な顔を前にして追い返すのは酷というものである。居間に通した後、随分と大きなリュックを背中から下ろしてローソファに座り出す祝を見届ける。
「着替えてくるから待っててくれ。喉乾いたら冷蔵庫に入ってるオレンジジュースでも飲んでいいから」
「別にその格好でもボク全然気にしないんだけど…まじめだなあ。はあい、勝手に漁っておく〜」
待つのに疲れて色々触り出すのを防ぐ為に急いで着替えに掛かった。とはいえ、黒ワイシャツとジーンズというシンプルな着方なので時間はそんなに取らない。居間に戻ると、言いつけ通りオレンジジュースをグラスに注いで飲んだ形跡があった。綾小路の服装をひとしきり見て笑い出す祝にお代わりを注いでやろうと冷蔵庫を開けた。
「あはは!やっぱり着替えても黒だ!」
「五月蝿い、俺は黒が好きなの……で、どうした」
「んー?」
子供特有の可愛らしさを大いに披露して知らない振りを決め込む祝を無視し、小さな両手で支えていたグラスの中にオレンジジュースを注いでもう一度尋ねる。
「朝から急に連絡もなしにどうしたんだ?」
「言わなきゃダメ?」
「当たり前だ、ほら」
お代わりを口に運ぼうとする手を妨げて催促すると、あちらこちら目を泳がせてぼそぼそ呟く。上手く聞き取れず、注意深く耳を傾けると。
「……………………家出してきた」
「は」
信じられない言葉が出てきて、思わず間の抜けた声が出る。言ったからもういいよねと安心しきった顔でオレンジジュースを飲み下す音だけが静かに響いた。
*
家へやって来た理由があまりにも大事で綾小路は会話を早々と切り上げて、祝の両親に電話を掛けた。繋がった途端、見知った声が飛んできたので挨拶もそこそこに怒りの矛先を向ける。
『はーい、風間で』
「お前、何やってるんだ!?祝君が家出したって言ってるぞ!」
『あははー、やっぱり君の所に行ってたんだ?分かりやすいなあ!!』
「笑い事じゃないだろっ」
事情を知らないならまだしも知った上で笑いをかましてくる祝の父親、風間の態度に苛ついた。いつも巫山戯ている姿しか見たことがないので、こんな時くらい真面目にして欲しいと心の中で悪態をつく。重々しい溜息をつき、何が原因で家出したんだと祝には聞こえぬよう電話口に手を当てて聞くと先程の騒々しい雰囲気を一気に締め切り、底冷えするくらいの低い声が耳の中を突き刺す。
『君だよ』
「え」
『君が言ったんじゃないか、俺に近寄るなって』
数日前、高校時代の苦い過去を蒸し返したくないと追い返した記憶が蘇る。突っ掛からずに何故か普段通りの笑顔で了承した時に、あまりにも拍子抜けで違和感を覚えたことはある。あるのだが。
「そんな、…………、……それは」
『そうなると、祝も近寄らせない方が良いだろうなと思ってね』
「あの子は、関係な」
『綾小路』
嘘を言っちゃいけないよ、と囁く声が精神を乱す。電話越しにゆっくりコードで首を絞められていくような感触を味わい、きっちり締めていた襟首のボタンを一つ外す。
『あの子は僕に似てるよ、怖いくらいに。そうでしょ』
「――」
『ふふ、僕はね。君のことを思ってやったまでだよ』
「…………」
悪意なき善意をぶつけられて黙り込む綾小路の返答を待たずに、風間は暫く遊ばせて疲れたら寝る癖があるからその時に送り届けてくれたらいいと祝に対する応対を告げた。何なら本当にそのまま泊まらせてもいいけど、と付け加えて一方的に電話を切った。暫く何も発しない電話口を見ていると、足に何かが絡んできた。
「ゆ〜き!ボク、色々持ってきたから遊ぼ!」
「……、あ……ああ」
驚いて、そちらへ視線を動かすと祝が楽しげに見上げていた。無邪気な笑顔を見て酷い罪悪感が生まれてしまったことをひた隠しにし、遊びの相手を務めることにした。
*
「なんでー、こっち…?帰るの……?」
「親が心配するだろうから、泊まりは流石にな。連絡もしたことだし……、……あと。祝君、ごめんね」
「んー……何、が……?」
「眠い?」
「うー」
随分と遊ばせた後、家へ送り届ける為に手を繋いで歩いていた。その最中、微睡みかけている祝は頷く。
「おいで」
素直に身を任せてきた祝を抱き上げると、数分も立たずに寝息が聞こえてきた。まだまだ子供である証拠が身に出ていて、大変可愛い。
「…………」
可愛いと思えるが、愛情が芽生えるかと問われたらそれはまた別の話だ。彼はとても……似過ぎていていけない。マスクの中で唇を噛み締めて、断腸の思いで目当ての家のチャイムを鳴らした。
「やあ」
「……申し訳ないことを、した」
出てきた父親に向かって挨拶でなく、謝罪を述べると片手を差し出される。意図に気付いた綾小路は今まで抱えていた祝を渡すと、起きることなく父親の片手の中にすっぽり収まる。体格が大きいせいでもあるだろうが、とても父親らしい面を見た。しかしその一面は次の瞬間、全て無かったことになる。
「じゃ、仲直りといこうか」
誰も彼もが悪い話
17/12/03 そのまま鍵を掛けて彼のテリトリーへと上がり込んだ。
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