蝉の大合唱と猛烈な日差しのせいで、深く刻まれていた眉間の皺が一気に無くなった。
密集した住宅街と、絡み合う電線と、蜃気楼を作り出すアスファルトの地面――実に暑苦しい景色を延々と見せられていた祝の目先に新しいものが映り込んだ。母に買ってもらった麦わら帽子のギザギザなツバから零れ落ちる無数の光と、何度も足を運んで見慣れた鳴神学園の校門前で隠れ切れなかった黒い革靴が二つ。あれは、間違いなく人の脚だ。
「ひっ…!」
(ししし死体!?勘弁してよ!小学生の身にして、そんな重いトラウマ負いたくない!)
ありったけの悲鳴を上げて、熱したアスファルトの地面をビーチサンダルの底で強く押し上げて逃げ去る。そんな完璧な計画を実行に移す度胸がなかった祝は、腰を抜かして口をぱくぱくするだけに終わった。
「う…」
「え」
死体と思い込んでいた物体が小さく呻いたのを聞き取る。生きている、という安堵より大変よく見知った声に驚いて急いで立ち上がった。麦わら帽子の後ろに手を付けて、深く被って少ししか見えなかった視界を拡げる。
そのまま半開きになっている門扉に手を付けて、そうっと覗き込むと両目いっぱいに黒が拡がった。
*
コンビニで買った品物を詰め込んだ袋を揺らせながら、祝は走る。
ビーチサンダルと床の擦れ合う音と、外気との温度差によって生じた結露が袋から滴り落ちる音がずっと耳に付いていた。が、目的地に付いた途端、耳をつんさくような悲鳴と平手打ちが他の音を消し飛ばした。ただならぬ雰囲気に驚いて目を見開く。
「なっ、何!?」
慌てて扉を開けると真っ白に染められた世界の中、ベッドの上で必死に乱れた胸元を掴んで後退る黒いスーツと赤く腫れ上がった頬を擦るアロハシャツが見えた。それは、まるで性行為を迫って拒まれた図のようであった。
「――はっ?」
あまりにも付いて行けない展開に、思わず間の抜けた声が勝手に喉から出た。
*
「で」
ぺりぺりと紙の剥がれる音を響かせて、湧いて出てきた冷えピタを一枚を渡すとパイプ椅子の上で感謝の言葉とともに大きな手が伸びてきた。
「襲われると勘違いした綾小路先生がダディをぶった、と」
「そうなんだよ、ひっどいよね!恩を仇で返すなんて!!」
口を尖らせて加害者である綾小路に聞こえるように大きな声で文句を吐く被害者――父、風間望はぺったり頬に貼り付けた冷えピタを擦っている。ちら、と綾小路に視線をやると流石に言い返す言葉がなかったのか頻りに頬を掻く。
「保健室まで運んでくれたのは…有難いと思ってる」
「あー」
「……呼吸が通りやすいよう、ボタンを外してくれたのも有難いと思ってる」
「あー、あー、痛かったなあ」
視線を交わさずに会話をする大人二人を黙って見ていた祝は、自身の感受性の高さを恨みたくなった。不貞腐れて目を瞑る父に聞こえぬよう抜き足差し足でベッドから上半身を起こした綾小路の所へ寄って小声で助言する。
「せんせぇ〜…此処は素直に謝った方がいいと思う。ああなったらダディ、てこでも動かないから」
「…………だよな」
ベッド下でひょこひょこ跳ねて動く祝の髪をじっと見て、面倒臭そうに眉間に皺を寄せた。そして重々しい溜息を一つ付いた後、きっと父を見据えた。決心したようだ。
「風間、――済まなかった」
「分かればいいんだよ、分かればぁ。…大体、君ねえ!」
謝った途端、声を荒げて指を突き出す。人に指を差してはいけないと母に注意されたことを思い出した。
「どうせ、あまり寝てない上に、あまりご飯も食べてないでしょ!!」
綾小路の顔が強張った気がする。よく見ようとベッドに近付くと、父に先程の騒動で有耶無耶になったけどお願いしておいたもの出してと言われたのでベッドの脇机に置いたままにしていた袋を引き寄せた。氷も入れてあったので袋の中は冷たいままで少し安心した。
「ええっとーポカリでしょ、ウイダーでしょ、冷えピタでしょ」
ウイダーと冷えピタは後で使うとして、と保健室に備えてある小さな冷蔵庫の中に仕舞ってポカリスエットを綾小路に渡すと素直に受け取って口に流し込む。その際、飲み込み切れなかった液体が口の脇から一筋垂れた。
「…っ!」
普段、黒布で口を隠しているだけに新鮮過ぎる光景を見て心臓音が跳ねる。そんな事実を受け入れる余裕は無く、頭を振って祝は先程まで綾小路の額に当てていたであろうタオルを掴んで氷水の張った洗面器の中に染み込ませた。緩く絞って渡すと、視野に入れた綾小路は口から垂れた液体を拭いながら礼を言う。
「せ、先生!これも」
「有難う」
そのまま濡れタオルを広げて顔を拭いている綾小路の顔色は幾分か良くなったようにみえて、ほっとした祝を見た父は話題に持ち出した。
「教師は生徒のお手本でしょ、心配させてどーすんのさ。祝からケータイ掛かって来た時、混乱しまくってて何事かと思ったね!」
「そうか…祝君が助けてくれたんだ」
風間の言う通り教師失格だな、今日のことは忘れてくれと苦笑する綾小路の白い首元から、ちらり赤い跡が覗く。
「あー、綾小路先生ったら首」
自分の首に指を当てて虫刺されを伝える前に何か聞こえ、音の鳴る方へ目をやると冷蔵庫の中に仕舞っておいた筈のウイダーのキャップを取り外した父が映る。
「飲みなよ」
「あ、ああ」
キャップを手にしたまま、渡されてしまうと中身を空にする他ない。栄養を取れと訴えかけているのが目に見えていた。口に出さないで行動で表す父は、たまに強引であることを祝は知っている。
「先生の調子も戻ったことだし帰ろっか、祝」
「うん」
首に掛けていた麦わら帽子を掴んで頭に被せた父の隣に並ぶと、見送る余裕が出たのかウイダーの吸い口を前歯で押さえたまま起き上がる綾小路に忠告する。
「もうあんな心臓が縮みそうな経験、二度としたくないから次からは無理しないでよね!じゃあ先生〜お大事に!」
「はは、努力するよ」
力なく笑って手を振る様を見届けて、その場を後にした。
*
まだまだ熱気の篭もる外を父と並んで歩く中、祝は視線を上下に動かす。子供は興味のあることに対しては物凄く好奇心が強い――祝もその一人だった為、抑え切れずに疑問を父にぶつけてみた。
「ねえ、ダディ〜。先生が、あんまり寝てないとか、ご飯食べてないとか何で分かったの?」
「ああ。夏になると、こういう事何回かやらかしてたからね綾小路は。嗅覚が鋭いのもあって、匂いの篭もる夏が超嫌いだし…その度に体格いいからって理由で運ばされてたから酷いよね!自分の管理くらいちゃんとしろって話だよ、全く」
「へえ…」
父の指摘したことは全て当たっていたのだと感心する祝を差し置いて話は続いた。
「高校の頃と同じ過ぎて笑いそうだったよ。ぶっ倒れた綾小路を保健室に運んでみたら、誰もいなくて僕が頑張って寝かせて、濡れタオルを額に当てて、肌蹴た服を直して」
「え」
「ふふ。本当、あんまりにも懐かしすぎて…」
父は今、何と言ったのだろうか。再度尋ねようと麦わら帽子のツバを両手で押さえて顔を上げると、開きかけた口を一気に引き結んだ。高校時代を懐かしく思い返している父の表情はとても楽しげだ。
――白い世界の中、微かな涼風を受けてはためくカーテンの影から覗く寝顔。
つつ、と指一つ動かせば襟首から覗く白い首。それを完全に覆う一つの影。
「久々に、悪い癖出ちゃったなぁ」
麦わら帽子のギザギザなツバから零れ落ちる無数の光と、小さく笑う声が絡み合って更に夏を染め上げた気がした。
夏が過ぎていく
16/09/11 子供から見た大人は秘密に塗れている。
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