蛍光灯という人工で作られた白い光を身に纏って、教室の中で授業を受けるということは学生ならば当たり前な光景だ。…光景なのだが、今、風間祝が受けている授業には教科書も勉強道具もない。あるのは断片的に聞こえる水音だけ。
「ねえ、綾小路先生はさ」
生徒の誰かが使っているだろう椅子に座って眺めていた教師の方へ振り向くと視線を合わせてくれた。そのまま話に集中しても良かったのだが、やりかけの事を放るという選択は祝の脳内に入っていない。
「ダディとどれくらい付き合いが長いの?」
「付き合い……、というと?」
抽象的な質問になってしまい、少し首を傾げる教師を理解させる為に視線を元に戻して再度聞く。
「こういう付き合いだよ」
授業の時に暇潰しでペン回しをするような感覚で、ポケットナイフを器用にくるくる回し突き立てると軽やかな音を立てて切っ先が深々と入り込む。そのまま力を入れて一線に引くと、もう無くなっていたと思っていた液体が溢れ出、床を、壁を赤くした。ぴちゃぴちゃっと跳ね返り合い、一滴の雫を受けてしまう。
「わっ」
「ああ、油断するからだよ…おいで」
音楽教師たる証拠が大変詰まった綺麗な手で手招きされる。抗う理由もないので、ゆっくり近付くとスーツのポケットから取り出したハンカチで頬に付いてしまった赤を拭い取ってくれた。
「まあ、お陰でボクもやりやすいけどさ」
「好き者だよな、本当」
聞きたい答えが返って来ない事に少しの不満を持ち、口を尖らす祝を通して何かを馬鹿にした薄笑いを浮かべる綾小路は、そのまま言葉を続ける。
「――息子に殺しを教えるなんて」
「……それは」
間を置いてゆっくり言葉を形作ろうとすると、軋み音を立てて教室の引き戸が開く。ノックもなく急にやって来た者は身を乗り出した。祝の父、風間望だった。
「終わったみたいだね。どう?」
何処のクラスなのか、どの学年なのかも分からない生徒を切り裂いていた息子の傍へ寄って笑い掛ける。世間体という面倒な仕組みが入り込まれた世の中でも生きやすいように一般常識も叩き込まれている祝はこういう時に、一般的な父親だと違った反応が返ってくるんだろうなと漠然と考えた。
「甚振って殺すお前と違って祝君は余計な手間を掛けないぞ」
「まだ力がそんなにないからね。相手から反撃されないよう、息の根を止めることを第一に教えてるから当然の結果さ」
気が付くと汚れを拭き終えたハンカチを折り畳み、三者面談のように生徒の成長を伝える教師と家庭の教育を吐く保護者の図が出来上がっていた。その内容は周りに聞かせては不味いものばかりだということだけは理解出来る。
「祝、後は僕達に任せてお帰り。もう夜道は慣れたよね?」
「えっ」
「大丈夫。いつも通りの日常に戻れるから安心していいよ、祝君」
「そのカラクリを今日こそ知りたいんだけどなあ」
あれよあれよと話が進んで、置いて行かれそうになった祝は頬を膨らます。殺した後の処理は大体こうして大人達に回される上に、教師の言う通り何事もなかったかのように消え去る。それが何度も続くと、流石に黙認できない。好奇心が疼く。
「なら、一滴も血を浴びないよう頑張らないと」
「う…」
「ね」
今は未熟だと遠回しに告げているようなものだった。軽く肩を叩かれただけなのに首を掻かれた感覚に陥り、少し足をふらつかせた。笑顔の奥底に隠された父の威圧に耐え切れなくなった祝は静かに頷いて、身を引く。
「…………」
廊下に出て、教室の扉を閉めると重々しい空気がぷつりと切れた。幾分か楽になった祝はうっかり喉に押し込んだ息を思い切り吐く。それから、肩を叩かれた瞬間に湧き出た汗を服の袖で拭き取りながら夜の闇に包まれた学校を後にする。
「チェッ、これだから大人は……」
あのまま父に楯突いたらどうなっていたのか。その先を見るにはまだ弱い、ということを自分でも分かっていた。強くなったら、後処理もその後の展開もあるのだろうか。父の気紛れで始まったこの教育は一体何処まで伸びるのだろうか――考えて、ふっと、先程言われた言葉が頭の中でリピートした。
『好き者だよな、本当。――息子に殺しを教えるなんて』
「ボク、分かる気がするよ」
(先生とまた遊ぶの楽しくなったから、架け橋になれるボクを作ったんだろうなあ)
彼らのそれからを、
僕は何も知らない
16/03/06 殺クラと悪クラなら祝が殺人者になっても止めないだろうなと。
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