じーわじわじわ…
みーんみんみん…
上昇した熱を逃がす為に予め開けておいていたのだろう。音楽準備室と廊下を隔たる扉の淵を掴んだまま、室内に広がる光景に見蕩れて祝は声を掛けることなく立ち尽くした。
「…………」
ほんの少し入ってくる涼風が窓に掛けられている白いカーテンを揺らして遊んでいる。その横、窓枠に少し身体を預けて何処かを見渡していた音楽準備室の主である綾小路がようやく祝の存在に気付く。
「何の用だ?」
「えっ、あ。あー……ウン」
間を置かずに出向いて来た理由を尋ねる綾小路と視線がぶつかり合い、何故か酷く戸惑った。いつも口を覆い尽くしている黒布が無いせいだろうか。心の準備も無く告白を促された感覚に近く、ひたすら目が彼方此方へと泳ぐ。無駄を好まない性格を持つ綾小路は目を細めて話の続きを催促した。
「暑さで頭をやられたのか」
誰一人知らない高等部へわざわざやって来た小学生を褒め称えて、優しく出迎えて冷たい麦茶をご馳走するくらいの行動を取って欲しい。真っ当な教師であれば。しかし、生憎と祝と綾小路の間ではそのような礼儀は持ち合わせていない。随分な挨拶に祝は地団駄を踏む。
「失敬だな!大体それ先生の方じゃないの!?どーしたのさ!ぼーっとして」
文句を言いながら人差し指を突き付けると、ぱちくりと目をまん丸にした。意外な反応が立て続けに返ってきて、調子狂った祝はそれ以上の反論が喉から出てこず、半分開けた口を静かに引き結んだ。
「……してたのか?それは悪いことしたな」
「やっ、別にいいんだけどさ!うん!!」
生徒に指摘されて初めて自身の有様に気付いた教師が素直に謝罪するというものは、見ていて気恥ずかしい。力一杯首を横に振ると、逆転し掛けた立場は直ぐに元通りになった。
「そうか」
普段きちりとした所ばかり目に付いていたので、今、教師らしからぬ柔らかさを含んだ綾小路が物珍しい生き物に見えてしまう。少し緊張を帯びた祝は、重ね合わせていた目線に耐えられなくなって下へとずらす。この時、違和感は態度だけではなかったことを知った。
(あれ?)
この蒸し暑い中で、ワイシャツのボタンを一つほど外しているのは不思議ではない、のだが相手が相手なだけに奇妙さを受けた。白い首からちろちろと覗く赤がやけに気にかかる。
(あかいあと…蚊に刺されたのかな)
「それで?」
「え」
用件は?と首を傾げる綾小路のお陰で本来の目的を思い出した祝は、学園に通う前に母から言われた言付けを告げていく。
「そうそう。マミィが今日仕事終わったら家に来て欲しいって。お隣さんからいっぱい頂き物貰ったから減らすの手伝ってとかナントカ」
「ああ……」
やけに曖昧な返事をした綾小路に疑問を抱いたが、否認している訳ではないので祝はそのまま確認を取った。
「…? 忘れずに来てよね!」
「分かった。それより良いのか?」
「え?あっ、やばっ。休み時間終わっちゃう」
壁に掛けている時計を指差して、間に合うと良いなと他人事のように言い放つ。慌てて踵を返して音楽準備室の中が視野から外れる、ほんの一瞬。気になって視線を戻すとまた何処か遠くを見詰める綾小路が映り込んだ。
*
担当していない授業時間を利用して次回に使う教材の用意をしていると、前触れもなく音楽準備室の扉が開いた。休み時間だったなら、生徒達の談笑で掻き消えていただろう小さな引戸の音を追うと、突然目の前が闇に包まれる。
『ねぇ』
その中で聞こえた声に動揺して、身体を捩らせると足を引っ掛けられた。後ろに支えるものが無かった為、そのまま床へと叩き付けられてしまう恐怖で声を引き攣らせる。
『――っ…っ?』
酷い衝撃を予想していただけにクッションの弾力で跳ね返されたことに驚く。客人が来た時に利用するソファを背にしていると認知した同時に、少しずつ目前に光が戻ってきた。視界を黒で塗り潰していたのは大きな手で、指と指の隙間からよく知った屈託ない笑顔が現れた。何回も見てきたその表情は今になっても慣れない。むしろ、慣れることなど永遠に来ないだろう。
『この後』
『う、っ』
『僕の可愛い可愛い息子がやって来るから、ちゃあんと耳を傾けてあげてね。無視なんかしたら……ふふ』
バネの擦れ合う音と低い声が耳を犯す。教師という立場を無視して、自分の快楽を追い求めて綾小路を組み敷く男は楽しそうに笑う。腕を這う大きな手と、ねっとりと絡み付く声と、生暖かい息遣いが全てを縛る。
『君はいつだって問題を大事にしたくない一心で生きてるもんね』
そう、綾小路の――何もかもを縛る。
『いい返事、期待してるよ。綾小路せんせい』
(だから、こんな事をしたのか)
まだ内側に残る、異物感がそうだと肯定している気がした。
「――さいあくだ」
わたしはどこにもいけない
16/02/08 日常の中に潜む非日常。と牽制。
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