下校時刻を過ぎ、生徒も教師も学園から出て行った。頼りなさ気な蛍光灯で辺りを照らして静寂を放つ学園の廊下を一人、綾小路行人は歩いていた。目的地は職員室。自席に戻って、片付けをして戸締まりする準備を行う為だ。……本音を言うと、それは表向きの話だ。

「…?」

職員室に着く前に、開放されたままの扉から漏れる明かりと人影が廊下にまで伸びている。誰も残っていないのを確認して校門を閉めて来たので疑心を抱き、眉を顰めた。そろりと足音を立てずに中の様子を探ると、職員室と外を隔たる窓に手を掛けて景色を眺める女教師の後ろ姿を見付けた。『奴』ではないことに安堵し、綾小路は口を覆っている黒布を正してゆっくりと扉を叩く。

「あら……、綾小路先生」
「まだ居たんですね。気が付きませんでした」

音に反応し、腰近くまで伸ばした茶髪を靡かせて振り向く女教師の笑顔と同時に左半分を覆った大きなガーゼが目に飛び込む。綺麗な顔をしているので、半分隠しているのは勿体無いと思う。

「うふふ、実はまだ居たんです。早く終わらせないと降ってきてしまいそうだと心配になってしまって…綾小路先生は傘持って来ています?」
「ええ、もしもの為に折り畳み傘を」
「ちゃんと用意しているのですね、自分も見習わなくては。よく忘れてしまうので置き傘するよう癖を付けておきたいです」

人受けのいい笑顔を浮かべて再度、窓の外に目をやる女教師に倣って綾小路も見上げる。薄暗くても判断出来る程、今にも雨が降りそうな天候だった。このまま普通に雑談を交わして別れを告げることが出来たら楽に一日が終わっていただろう。

「毬絵先生」

そういう楽な生き方をあえて、選び取らなかったのには理由がある。――とても重要な理由が。低い声色で名前を呼ぶと双方の瞳の中に綾小路を映した。

「僕が、気にしてないと思いますか?」
「何をかしら」

主語のない質問を受けた毬絵は流石に推測で物を言うわけにもいかず、やんわりと突き返した。

「覚えていないでしょうか。自分は××期生の鳴神学園の生徒でした」
「まあ。教師として帰って来て、母校で活躍出来るなんて夢のようですね」
「ええ、貴方にも教えて貰いました」

一旦言葉を区切って、とある単語を強調した。



「美術を」



カッと一瞬の光を照らした後、勢いよく降り出した雨粒が窓を何度も叩き付ける。間に合わなかったと肩を落とす前に毬絵は綾小路の説明を一つずつ頭の中で咀嚼していたが、最後まで飲み切れずに首を傾げてしまう。

「…………何を言っているのか、よく分からないです。綾小路先生」
「先生!貴方は1995年の時に亡――、っぐ!!」

少しぼかしていた事実の中に、真実を付け加えると急に後ろから伸びてきた大きな手が綾小路の口を、黒布ごと思い切り塞いだ。

「やぁ、綾小路」
「っ!」

『奴』の声だと気付いた時には既に遅かった。驚いて前を見直すと、毬絵は目を瞑って床に倒れていた。気絶しているようにみえるが、眠らされたのだろう。どのような手段を使ったのかは一切不明だ。口を塞いだ手を振り払うと簡単に放してくれた。

「駄目だよ。先生の邪魔をしちゃ」
「何を言ってる!邪魔をしているのはお前だろう!!」
「僕はただ、先生の望みを叶えているだけだよ」
「何……?」

話に興味を示した綾小路に対して口の端を吊り上げて出迎える。

「生徒に慕われる教師でありたい。それが先生の望みさ」
「例えそれが毬絵先生の望みでも、お前のやっていることは死人を冒涜してるのと変わりない!」
「君がそう思うなら、そう思えばいいさ。だけど毬絵先生はどうかな」
「…………」
「高校時代よりは活き活きしてると思うけど」

あの頃は生徒に虐められて追い詰められていたからね、酷く可哀想な先生だったなあと冷たい感想が『奴』の口から出てくる。当時、生徒達の流れて来た噂や行方不明の報せを耳にしたことがある綾小路は口答え出来ずにいた。

「君のやっていることは果たして本当に正しいのかな?エゴにすぎないのかもしれないよ…綾小路先生」

耳元で笑いながら囁いた言葉に、頭の中が一気に沸騰した。

「貴様!!」

振り向くと、今まで距離を詰めていた筈の『奴』が忽然と消えていた。あるのは剥き出しになった扉の外を取り巻く濃い闇だけ。怒りの矛先を向き損ねた綾小路は歯軋りした。

「それでも、」



「……それでも、俺は悪魔を根絶やしにするだけだ」



握り拳を作った隙間からつ、っと赤々とした血が滴り落ちた。










それだけで、

生きていくには十分

満ち足りているでしょう、






15/11/24  小学怖の毬絵先生は一体何者なのか。