※風間と雪の間に産まれた祝捏造。




鼻歌を歌いながら軽い足取りで、すっかり歩き慣れてしまった道を踏み締める。マンモス校と謳われている学園で有名だが何故か誰一人会うことなく、目的地への距離が段々と縮む。キュッと足を滑らせて、閉め切ってある扉の前に立つ。

「せ〜んせ〜〜いっとな」

握り拳を作って数回叩くと、どうぞと了承の声が返ってきたので思い切り扉を全開にした。使わない楽器物や楽譜、または音楽に関する書籍が幾つも詰め込まれた部屋の中に申し訳程度に業務机とローソファが置いてある。何処を見回しても沢山使い込まれた形跡が残っており、一種のノスタルジックを感じさせる空気が漂う。

「や、綾小路先生」
「……随分と毟られたな」

音楽準備室の敷地内に入るなり、眉間に皺を寄せてそんな言葉を吐く。生徒を前にして教師が嫌そうな表情を向けるのはどうかと反論を返したくなるが、今の状況を考えると無理もない。祝の学ランの中にあるワイシャツのボタンが全滅で開き切っているからだ。薄い緑色のシャツを着込んでいなければ裸を見せることになり、変質者のレッテルを貼られていただろう。

「いやあ、ボクって当然のようにモテるからね!」
「黙ってればな。何も知らない下級生達だったんだろう?」
「うるさーい!!喋っててもボクは格好いいの!!……あっ、あれ?もしかして褒めてくれてる!?」
「良い所だけ拾うんじゃない」

トークの振り方を勉強しろと溜息を付く教師、綾小路行人は仕事と普段の顔二つを絶妙に使い分けているので弁解の余地がない。そもそも小言を貰いに音楽準備室へ訪れたわけではない祝は投げ遣りに、はいはいと返事をして口を尖らす。

「それにしても…お前、抜け出して大丈夫なのか」
「んっ?もう大体終わったよ」
「いや、そうじゃなくて……」

言い掛けた言葉は、ひらり――と、薄桃色を付けた桜の花弁が無断で綾小路と祝の会話に横槍を入れてきた所で止まってしまった。窓を開け放ち、半分咲いた桜を愛でながら今まで校庭の様子を見ていたのだろうか。それなら話は早いと祝は後ろに隠し持っていた黒い筒を綾小路に突き付けた。

「大丈夫だよ、エスカレーター式だから。これで最後じゃあないもの」
「……そうか」
「先生、ボクが卒業するの祝福してくれる?あと歓迎してくれる?」
「はあ、自分で先に言うなよな。……中学卒業おめでとう、そして高校入学も…………待ってるよ」

小学から中学へと時は流れ、その三年の間で急激に成長した祝は見事に父親の遺伝を受け継いで、今は綾小路とほぼ同じ身長に近くなった。顔も父親に生き写しだとよく近所から言われる。高校入学の所で声のトーンを落としたのは距離感がより近くなってしまった事に嘆いているのかもしれない、そう感じた祝は無駄に大きな声を上げる。遠回しに自分を避けようとしているのを幾度も阻止してきた為、今回も苦ではない。

「へへ!約束だからね!!」
「何だ?」

ポケットの中に仕舞い込んでいた白い造花を取り出して、綾小路の手の中へとぐいぐい握らせる。いつも黒で統一された身に白はコントラストが効いていて酷く映えた。

「それだけは死守出来たの。さっ、先生!此処に付けてくれたまえよ!」

此処、と踏ん反り返って学ランの胸ポケットの上を指す。胸章は卒業式の時、後輩に付けられる筈だと疑問で満ちた綾小路はゆっくり首を傾げた。

「お前から渡されたものを、もう一度渡すのか?俺が?」
「いいじゃない!要は雰囲気だよ雰囲気!!」

問答無用で促され、まだ納得の行かない綾小路は胸章に付いた安全ピンを外しに掛かる。鋭く尖った針がきらりと輝く。

「うっかり刺さないでね。ボクの玉のように綺麗なお肌が傷付いちゃう」
「いくら何でもそこまで不器用じゃない」

身長差がそんなに無いので自然と視線が合う。互いの瞳の中に自身が映るが、布地を軽く摘んで狙いを付け始めた綾小路によって長く続かなかった。

「大体、何でこんな事を…」
「卒業式のお祝いして欲しかったし、お世話になってる人だし、何より好……いや!?といっても、そ、ソンケイっていうか、そういうアレの意味だよ!!」
「ほら、動くなって。危ないぞ」
「…………、…………こうやって貰えると、ボクのこと認めてくれてる気がして」

卒業式の感傷的な雰囲気に酔ってしまったのか、普段なら死んでも言わないような本音を綾小路に吐露した。沈黙が下りた途端、気恥ずかしい思いがドッと湧いてきた祝は赤くなっているであろう顔を片手で隠して綾小路から視線を逸らした。

「やめろ!!!」
「え?」

途端、布地を摘んでいた綾小路の手に力が篭り、小さな痛みが一瞬走る。突然の変わり様に驚いて理解が追い付けない祝の胸をそのまま押し出して力一杯声を張り上げた。

「帰れ!帰ってくれ!今すぐ!!」
「せ、先生!?」

音楽準備室の扉を開け放って、無理やり追い出そうとする綾小路に慌てて両腕を掴んで止めに入ると、マスク越しでもはっきりと分かる程の悲痛な顔がそこにあった。

「お前まで」

教師の面を落とし、今にも泣きそうな濡れた目で祝を見据えた。

「お前まで、『あいつ』と同じことを言わないでくれ!!」

初めて弱い部分を見せ付けられて、隙を生んだ。力が緩んだ。押された反動で廊下に出た祝を確認するとそのままぴしゃりと扉を止めて鍵を掛けた。そのことに気付いた時にはもう既に遅し。いくら引いてもびくともしない扉を叩く。

「先生!」
「帰ってくれ……頼む、祝君。う、う――っ、ううっ、う……うっ!」

扉の内側で嗚咽を漏らしながら、ようやく此処で初めて名前を呼んだ。それくらい切実なのだと感知した祝は叩くのを止め、音楽準備室から離れることにした。気落ちし、項垂れると白かった筈の胸章に一筋の赤を見付けた。何処も怪我をしていないので綾小路の返り血だと確信したが、戻るに戻れなかったのでそのまま振り向かずに走った。



*



家の鍵の開く音が聞こえ、次には二階に駆け上がる足音が聞こえた。いつもなら何かしら一言伝えてから二階へ行くので不思議に思った父は、読んでいた雑誌を投げ捨ててソファから立ち上がる。用事がまだあると言い残して家族揃って帰宅を遠慮した祝に何かあったのだろうかと心の中で勘繰る。

「祝」

こんこんと部屋の扉をノックして名前を呼ぶ。しかし一向に返事が無いので、ドアノブをゆっくり回してみるとすんなりと開いた。驚いたのはそれだけでなく電気も付けずにカーテンで閉め切っており、後方の光しか射さない暗い部屋の中で、ただ座っている息子の背中が飛び込んでくる。

「どうしたの?何も言わないで帰って来るからびっくりしちゃったけど」
「…………、…………父さん」

ダディではなく、父さんと硬い呼び方をするのは真面目な話をしたい時だと長年暮らしていつの間にか染み込んでしまった暗黙の了解。それを汲み取り、静かに続きを待った。

「ねえ、父さん」

聞いているのか再確認の為にもう一度呼ばれたので頷くと、そのまま後ろを向いたまま小さく吐く。

「母さんのこと愛してるの?」
「愛してるよ」

脈絡のない質問に動揺せず、淡々と答えてみせると祝は間を置かずに次の質問を仕掛けてきた。

「僕のこと愛してるの?」
「愛してるよ」

先程と同じ答えを返すと、それきり何も言わずに閉口してしまう背中。暗い中で顔を見せない祝に痺れを切らした父は寄り掛かっていたドアから離れ、部屋内へと一歩踏み出す。

「……先生のこと愛してるの?」
「……、あァ。……愛してるよ」

此処でまさかの続きが出るとは思わず、踏み出した足を止めた父。暫くした後に納得したような声を漏らしてから、はっきりと答えた。迷いもなく。重々しく。その事実を手一杯に抱え切れなくなった祝は俯いた顔を上げて父の顔を覗いた。普段通り変わらない笑顔がそこにある。

「綾小路がママのことずっと好いてたのは知ってる。最初はね、二人を祝福するつもりでいたんだ」
「と…」

父から前触れもなく衝撃的な内容が飛び出し、祝は言い掛けた言葉を喉に詰まらせた。

「どっちも好きだったからね。でも、ふっと考えてしまったんだなぁ。このまま……このまま、二人が結婚したら……僕はどうなるんだろうって。ママ、というか雪ちゃんはともかく綾小路は僕を忘れる。その自信があったから、僕は」

二人の男女が仲睦まじく並んで他愛もない会話で盛り上がっている場面を思い出しながら、ぐっと握り拳を作って引っ張る動作をみせた。

「彼から彼女を奪った」
「――――」

「そうすれば僕のこと認めてくれるでしょ、って結婚を祝いに来てくれた時に言ってやったんだ」

あんな顔を向けた綾小路を見たのは初めてだったなあ、と柔らかく笑う父の瞳の中には何が映っているのか全く理解できない。謝罪の代わりに抱き寄せて祝の背中を撫でる父。此処で、小さい頃に公園で襲った不快感がまた自分の中からどろどろと一気に拡がっていく奇妙な感覚に捕まる。

(そうだ、昔にも感じたこの気持ち悪さは……)

(ああ、)






(――狂いだ)








教師と生徒/04





15/06/21  その夜、子供であることを卒業した。