剥き出しの片腕を掴むと体温が異常に低いことを知る。
人に触れていない時は素なのだろうかと思うよりも早く、引き離しに掛る。

「いい加減にしろよ」
「ありゃ、綾小路だ」

邪魔がまた入っちゃったね、残念残念と目前の相手に向かって肩を落とす仕草をする。それが嘘だということは綾小路も、目前の相手――坂上も承知だ。一年の教室前で困惑した顔のままで坂上は綾小路に頭を下げた。

「あ、綾小路さん。あ、有難う御座います…助かりました」
「酷いなあ、坂上君たら。綾小路よりも僕に集中してよ」
「嫌ですよ!何度言えば分かるんですかっ、僕は契約するつもりありませんってば!!」

少し癖毛のある髪の中に人差し指を入れて、つんつん小突く手を振り払って声を荒げる坂上の態度に口を尖らす風間。場が場なので声を抑えるよう坂上を落ち着かせつつ風間の腕を引いて距離を取らせる。

「ああ〜つまんないなあ。坂上君は契約してくれないし、綾小路には捕まっちゃうし、」

盛大な溜息を付いた後、腹を摩りながら言葉の続きを吐いた。



「――何より、お腹が空いたなあ」



は?とでも言いたげな顔をする坂上の気持ちは分かる。急に話題を変えられたと思うだろう、しかし綾小路はその意味を十分すぎるほど理解していた。思わず掴んでいた手の力を強くすると薄らと笑みを浮かべた。ぶわり、不快感の波が一気に押し寄せてくる。

「離してよ、痛いってばあ」
「……帰るぞ」
「はァ〜〜い。じゃあまたね、坂上君」
「もう来ないで下さいってば!」

諦める気配がない風間を突き放しても、手を振る様に坂上は呆れた。踵を返して階段前に着いた所で、綾小路の耳にそっと囁く。

「離して、手」
「…………」

先程とは打って変わって素直に手を離す綾小路に満足して、ご機嫌なまま不自由にされた腕を摩る。

「痕付いてないよね?強く掴むんだもんな〜」
「おい、かざ」

痕が付いてないことを確認すると、綾小路の呼び掛けを無視して腕を引っ張っぱる。三年の教室とは違う方向へ行こうとする風間の後ろ姿を見ると、応えるように。

「旧校舎いこ」
「…………」
「約束だもんね。僕が食い散らかさないように君が身体張ってくれるんだもんね」

返答しないでいると、歩みを止めてゆっくり綾小路の方へ振り向いた。普段、人に見せることのない酷く歪んだ笑顔を携えて。

「…ね」

手を離せばどうなるかなんて想像したくもないし、これからどうなるかも想像したくなかった。マスクの中で下唇を噛みながら、抵抗することなく思考を止めて一歩。

綾小路は、風間の方へと踏み出した。



*



新校舎から旧校舎へと移動する風間の後ろ姿を覗き見しても、あるのは真っ白いワイシャツの壁だけ。綺麗な白だと感じても、中身は白を全て拒否する黒で溢れ返っていることは承知だ。三年間通い続けている校内を見、確実に近付いてくる旧校舎の存在が処刑台のように感じて恐怖が高まっていく。喉の渇きを覚えて、唾をごくりと飲み込む。

「っ」

意識を別の方へ向けていた為、急に止まった風間の背中にぶつかる。何事だとマスクを正しつつ背中から覗くと、目を見開いたまま動かないクラスメイトの水科だった。両腕に抱えている幾つかの飲み物で、誰かに頼まれて買いに走った帰りなのだと直ぐに気付いた。

「――あ、う」
「やー水科」

既に五限の開始ベルは鳴り終わり、生徒達は教室の中に密集する。が、授業に出ずに逃げ出すという例外もある。後者の立場であった水科は意外なほど鋭い洞察力を持っている為、気の抜いた風間の正体を見破ったのなら非常に不味い。意識を水科から逸らすべく、腕を掴んで離さないでいる風間の手の甲に五指を重ねて爪立てる。

「お、おまえ…」
「そこ、退いてくれる?」
「――――」

風間は綾小路の抵抗に目を向けず、人差し指を軽く水科の方へ指す。退くようにと横に指を滑らせた。渡り廊下は綺麗に真っ直ぐに伸びた一つの道しかなかったので、水科が退かない限り通れない。

「ありがと」

風間の威圧で恐れた水科は青褪めた顔をしたまま横へと退いた。出来た隙間から通り抜く風間に続いて引き連れていく綾小路を視界に入れた途端、か細く震える声が僅かに聞こえてきた。

「……あ、あやのこ――、……、……っ」

途中で呼び掛けるのを躊躇い、口をきつく閉じて俯いてしまう。その場から動かずに震える水科が視野から離れるまで見続けた綾小路を風間は突っ込んでみた。

「…………」
「何?水科が気になる?」
「…後で。記憶消しておけよ」

異質からの救済は一般人では不可能に等しいということを全身で感じ取り、手を出すことも口にすることも出来なかったのだろう。それはとても正しい。水科はただのとばっちりだ。あのままだと不憫でならなかった為、風間に記憶消去の提案を持ち出すと釣竿に掛かった獲物を見る漁師のように口の端を上げた。

「いいよ、君が僕の望むものをくれるならね」
「……本当に」

全て確信犯だと気が付いても後の祭りだった。



「腐り切ってるな」
「それが悪魔だもの」



ぎい、と旧校舎の扉を開け放つ音と共に会話は終了した。






















最高の憎悪と悪意と

ほんの少しの憐憫