数分後。
今の状況を掻い摘むと、音楽準備室という私物化に近い部屋で綾小路が淹れてくれた紅茶を飲んでいる所だと言っておこう。何故こんなことになったのか、ゆっくり思い返すと人差し指を突き立てる雪が頭の中に浮かんだ。あのまま綾小路の居場所を教えてくれた同時に、会いに行くなら夕方が狙い所だと助言もしてくれた。
その通りに行動を起こすと、すっかり生徒が居なくなって寂しい雰囲気を生み出す学園の校門前を通り掛かった用務員を発見した。好機を逃がさないよう、綾小路の知人だと名を告げるといい顔をして、直ぐに本人を連れて来てくれた。
(何というか、昔からセキュリティー甘いのは変わってないなあ)
色々と摩訶不思議な噂で絶えない学園だから防犯しなくても学園自体が守ってくれるのかもしれない。苦笑を浮かべていると、事務机に戻って淹れたての紅茶を少しずつ飲んでいた綾小路に話し掛けられた。少しずらした黒布のマスクがやけに目に付く。
「雪に会ったんだって?」
「えっ、何で知ってるのさ」
「メール来たんだよ、後でそっちに風間が来るかもしれないって連絡が。まあ……何か知らないけど、追伸で『危機感持ってね!危機感だよ!』って注意されたな」
「ハッハッハッ、雪ちゃんお茶目だから!」
余計な一言をと冷や汗を掻いたが、たいして気にかけている様子が何処にも見当たらなかったので安堵した。
「まあ、何だ。変わってなくて安心したよ」
「ア」
大変な目に遭っていた高校時代とは違って、落ち着いたのかもしれない今だからこそ出来る、柔らかい表情を見た途端、雪の言っていた意味を理解した。
(ここここ、これは)
襲いたいという熱情が心の奥底で物凄い勢いで反響し合う。此処で理性より本能を取ってしまっては綾小路の人生を崩壊しかねない。その綾小路の嫁からとんでもない了承を頂いたとしてもこの甘い誘惑に乗るわけにはいかない。咄嗟に円周率を頭の中で呟く。
「…………き、君こそ!人多いの駄目なのに、よく教師になろうと思ったね」
「……別にいいだろ」
「えーだってそうじゃないか。こんな所、人でごった返して」
「音楽をしたかったんだよ!悪いか!」
「アァ」
やばい。ほんとに襲いたい、…じゃないだろぼかあ!!!!随分と可愛らしい理由だ、なんてどうでもいい、心を静めるんだ。静!性!違う!!どんどん頭の中で展開されていく円周率。
「ほんとに父親に見えない……」
「な、何だと?」
父親というキーワードに反応し、眉根がぴくりと上がる。見るからに、黒で全身を包む若々しい成人でこれから子持ちになるであろう父親の雰囲気が全然見当たらない。想像もできない。
「よく頑張ったね君……子供、おめでとう」
「ン、ん……ありがとう」
恥ずかしさを散らすように咳払いをして、顎にかけていたマスクを戻した。ああ、本当に昔からそうやって無意識で誘ってきたよね君は。ふふ、と笑って懐かしさを噛み締めながら唇を噛んだ。鉄の味がした。
*
「いらっしゃい望君。ふふ~絶対連れてくると思ってたから今日は御馳走よ」
玄関前で中に入るよう勧められた風間の視野に飛び込んだのは、エプロン姿で湯気が立ち上る鍋を見せる雪。それに慌てて駆け寄る綾小路。
「おい、雪!重たいものは持つなって散々…」
「もう、これくらい大丈夫よ!ゆきは心配性すぎる」
「だけど」
「ほらほらさっさと着替えちゃって!お客様待たせちゃ申し訳ないでしょ。それに、あったかいご飯も待ってるんだから」
「わ、分かったよ…」
まんまと言い包められ、返事しか出来なくなった綾小路を見て満足気に微笑んだ。そそくさと着替えに行く綾小路を見送った後、雪の誘導で夕食が並べられたテーブル、手近な椅子に座らされる。小型ガスコンロの上に熱々の鍋を置いたかと思うと、ずいっと身を乗り出してきた。
「ど?襲いたかったでしょ?」
「……君には負けるよ」
彼と彼女のアイデンティティ
12/12/10 何だか言って仲良しな風間vs雪がいいです笑。
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