散々来るなと立腹していた綾小路を無視して、いつものように音楽準備室に訪れると何故か今日に限って物凄く熱い歓迎をされた。背に両手を回して胸元に顔を埋めるその行為は酷く性的要素を呼び起こすので止めて頂きたいと何度言っても聞き入れないので非常に悩ましい。というよりも――『こういう時』は、全て意図的に行っているわけではないので全く以て厄介だ。

「あー、うん、今回は何があったの?」
「生徒が怖い」
「唐突だね」
「俺もう駄目かもしれない…」

教師でいる時の綾小路はひたすら威厳が溢れ出ていた。その雰囲気が崩壊し、今は地が出まくっている。必ずと言っていいほど限度に達した時は感情が鮮明になるので宥めるのに徹しなければならなかった。その中で最も苦労するのが哀情だ。高校時代の時も随分と手を焼かされた思い出がある。

「取り敢えず、経緯教えてくんない?」
「風間!今の若者ってああなのか!!??」
「ああって?」
「スペアがあったから良かったものの……あれは無い。無さすぎる。酷い……」

顔を胸元に埋めたまま肩を震わせた後、黒い布越しから聞こえる小さな声でぽつりぽつりと経緯を話し始めたのだった――。



*



下校時刻の知らせを伝えるスピーカーの音を聞きながら職員室に戻った所。

「…あ」

音楽準備室に鍵を掛けていない事に気付いて、手元にある書類を取り敢えず机の上に置いてからとんぼ返りした。夕焼けで染まった静かな廊下を歩いて、音楽準備室に辿り着くとすぐさまドアノブの鍵穴に味気のないキーホルダーのついた鍵を差し込もうとすると中から何かの音を聞いた。

「? 何…」

そっとドアの隙間から音楽準備室の中を覗くと男子生徒が一人、私物化に近くなっていた机の前に居た。何かの用でもあって此処へ来たのだろうかと足を踏み入れ掛けたが、次の行動でぴたりと止めた。

(……何を手にして――、っ!?)

叫びかけた悲鳴を手で押さえて事の成り行きを見守る。ぐしゃりと握り締めている『それ』は見覚えのある…否、わざわざ誂えさせた物である黒布だった。その布に口付け、匂いを嗅いでいる。

(……ぅわ……)

危険信号が嫌というほど鳴る。確実にその類いだ、変態という類だ。この世で生涯関わりたくない類に入るというのに何故か、運命の悪戯でか縁が強かった。いい加減に切れてくれと悪魔にでも頼みたい気持ちで一杯に染まる。気持ち悪さの余りこの場から逃げ出したかったが、目撃したからには何らかの対処を施さなければ調子に乗ってしまうだろう。固く決意してドアを開けようとした途端、有り得ない光景が飛び込んできた。

「ふーっ……ふーっ……先生、先生、せんせえ」
(う、嘘だろ…おい待て!馬鹿野郎、ふざけんな!!う、うわぁああぁぁあ……)
「綾小路先生」
(最ッ悪だ!!)

名前を呼ぶなと今すぐにでも悪態を付きたい。しかし教師としての面子が…もう、それどころじゃない所まで来た生徒が明らかに悪い。こちらは正当防衛だ。そう自分に言い聞かせたが中に入り込む勇気はもう完全に無く、事が終わるまで待っ――――。

「待った!」
「え」
「その生徒は中で何してたの?」
「え、……う、ン」

肝心な所で言い淀んだ綾小路の顔を、胸元から引き剥がして上向かせると戸惑いが露になる。しかし、此処で何があったのかをはっきりさせないと物事が見えてこないよと真面目に言うと観念し、ぼそぼそと小さな声で吐いた。

「そ、その、お、俺の…大事なマスクで」
「うん」
「マスクで、ぅ、せ、性、性器を扱いて……うう」
「え?聞こえないよ」

余りにも小さくて聞き取れなかったのでもう一度言ってと耳を口元に運ぶと、繰り返し言うのが恥ずかしかったのか顔を真っ赤にして大声で叫んだ。

「だっ、だからマスクで性器を扱いてたって言ってるだろ!!!!!!」
「どうやって?」

予想以上の大声で脳を揺さぶられ、ふらついて少し綾小路から距離を取った。それでも話の続きを促す。大事なことだ。

「か、被せて、こう……ゴシゴシと」
「ううん、そこはシコシコの方がいいなあ」

空気を握るような手を作って上下に擦る綾小路を見て、ぽつりと呟くと少し動きを止める。そして、意味を理解したした頃には顔を真っ赤にして怒り散らした。

「え……、! ばかざま!!真面目に聞けよ!」
「あははーごめんごめん、で?」



*



「あ、ぁ、あ……はあ、は、はあ、ン、せんせい、――せんせいっ」
(ひいいいいい)

黒布で性器を上下に擦る度に、ぐちゃぐちゃと水音がドア越しに聞こえて一気に総毛立つ。私物を勝手に汚されているという嫌気よりも、そういう対象として見られているという嫌気が身を浸す。そういったことは異性にしろと教師的に言ってはいけないことだが、今くらいは許してくれと誰に言っているのか分からない言葉を心の中で発した。

「あ、ぁ、ハ、俺の飲んで…下さ…っ!」
(しね!!!!)
「ハ――、ンンッ……!ン!」

男子生徒の酷い言葉で自分が飲まされてるような気分に陥り、思わずマスク越しにある口元を強く押さえてしまった。本気で吐きそうだと思いつつもぐっと堪えて、終わったのを見計らってそっとドアを開けてみた。

「あ、先生」
「どうしたんだ? 鍵を閉めに来たんだけど…何か用か?」
「ええ、プリント渡すよう頼まれてたので……机に置いておきました」
「そ、そうか、悪いな……」
「いえ、これくらい!先生のお役に立てたなら嬉しいですから……へへ……」
「ア、アリガトゥ……」

(嬉しいこと言ってるけど見えてんだよ……黒布……チキショウ!!)

爽やかな顔をした男子生徒のズボンの後ろにあるポケットに、無理矢理捩じ込んだ黒布の先がちらりと覗いて、泣きたい気持ちが溢れた。それを何とか堪えて、ぶるぶる震えながらも教師の面を見事に演じ続けた。




「――で、今に至ると」
「分かってくれるだろ、俺のこの遣る瀬無い気持ち」

背中に回した両手に力を入れる綾小路に応えるよう、優しく優しく抱き返した。

「よく頑張ったね」
「ホントだよ!!!!!」














子供みたいにぐずるきみを





12/12/10  抱っこして帰る僕は偉いよね。ちゃんちゃん。