大きなマスクが特徴な先輩が、珍しく人差し指を入れて顎元まで外して口を覗かせた。

初めて見るであろう晴れやかな顔を此方へ浮かべ、もう大丈夫だと言われた瞬間、針で刺さるような痛みが小さく拡がった。それは果たして―――何だったのか、分からずにぽっかり空いてしまった穴を抱えて今日も一日生きる。

「………………」

その都度、空白の穴がもどかしく俺は安心出来る要素を探し求めて自由になった放課後、一年のクラスをさっさと後にした。



*



おいで、と。

初めて伸ばされた手を見て、絶望的に陥っていた中で希望を灯してくれたあの気持ちを俺はずっと覚えている。人の温もりがこんなにも頼もしく嬉しいと思ったのも初めてだった。あの人も訳の分からない化物―――『悪魔』で苦しんで、それでも尚立ち向かう姿が格好良くみえた。覚えている、一緒に苦を分かち合ったことも覚えている。

全部、覚えている。



「せんぱーい!また来てますよー、えっとー……八重樫君って子が!」

三年のクラスに居なければ、旧校舎、図書室、吹奏楽部と消去法でよく居る場所を訪ねると大体目当ての人物は見付かる。自分の代わりに声を掛けてくれた同年代の子に呼ばれてやって来た先輩を見て少しの緊張と安心感が湧く。

「何だ?また来たのか、しょうがない奴だなーいっそのこと入部でもしろ」
「あ、はは、すいません、暫くは綾小路先輩の所に行ってましたから」

安心出来る場所、というより安心出来る先輩が居るのなら吹奏楽部へ入部するのも悪くないかもしれないと不純な動機が生まれた自分の考えに苦笑を漏らす。正直言って綾小路行人という先輩の存在が無ければ俺は自分自身を見失っていたに違いない。それだけ、心の支えになっていたことは確かだ。

「ちょっと癖になっちゃって……」
「はは、分かるよ。ずっと悪魔に追われてたら色々と感覚が麻痺するよな」
「…ええ」

悪魔に魅入られ、日常だったものが一気に急変し、慣れという生半可なものではなく無理やり非日常へと浸け込まれた感覚が強かった日々のことを思うと、今の緊迫感のない馴れ合いは幻想ではないかという疑惑が心の中で生まれる。

「あの、」

「綾小路先輩は不安じゃ、ないんですか?急に戻ってきた日常」
「―――ああ……うん、でも」

すうっと目を細めた先輩の顔は酷く穏やかで、どきりとした。答えを言い掛けた所でまた後輩に呼ばれて少し待てと片手を翳す。前までは悪魔退治しか頭になかった先輩だけど、日常に溶け込む先輩は凄く人間として思い遣りや気配りがある。流石は部を纏める三年の一人だなと出入口に向かう後ろ姿を追った。

「何しにきたんだよお前」
「僕が居なくて寂しがってるかなあと。ハグする?」
「何でそうなるんだよ!馬鹿か!?帰れ!ゲットアウト!」

吹奏楽部の出入口に頭が当たりそうで当たらない位の高身長?超高身長?な人が先輩にちょっかいを出す光景が目に映る。肩章を見る限り先輩と同じ三年生みたいだけど外見からして対照的で実に珍しい人がやってきたなあと考えつつ、自分を見直して直ぐに止めた。いや、でも高校生活では優等生を演じているから、まともに見えるよな?そう心に言い聞かせて色染した茶髪を弄る。

(あ)

「とか言いつつ鼻ひくつかせてるじゃ~ない?はっはっはっ、なんて冗談だよ。君の勇姿を見に来ただけ」
「…………ほんとに馬鹿だろ」

勝手に入って来ようとした相手を押し返して扉を閉めた。少し眉根を寄せつつも赤みを差した顔で満更でもないらしいことが窺えた。この時―――ぽっかり空いた穴の中身が、とすんと軽い音を立てて全部埋まった。埋まってしまった。

(ああ)

一部始終を見ていたことに気付いた先輩は咳払いして、先程見せた穏やかな笑顔へと作り替える。そのまま俺の頭に軽く手のひらを乗せた。

「なに、徐々に慣れていくから心配いらないよ。もう君を脅かす存在はいないんだ、八重樫君」
「は、―――い」



悪魔を退治してしまったから。

悪魔がいなくなって。

先輩との繋がりが。



ぷつりと切れて。



俺の心に傷が付いた、穴。



(あやのこうじせんぱい)

「それと吹奏学部は随分とカワイコちゃんが多いしねえ。紹介してよ」
「部活動中に堂々と狙ってんじゃねえよこのばかざま!」

一度追い出された迷惑者の声が後ろから掛かり、吃驚した先輩の顔付きが変わった。握り拳を作り、向かおうとする行動を止める部員達が横から飛び出る。

「わー!先輩落ち着いて!殴ったら手に傷がつきますって!!」
「せっかく再入部した身なんですから!」

もう繋がることはないのだと確信を得た俺は一人静かに賑やかな吹奏楽部からそっと離れた。そして、誰もいなくなってしまった自分の教室に逃げ込んで扉を閉めた。出入口前に身体を預けてへたり込んで少し、周りを見ると夕焼けに照らされて何もかも無くなった教室が今の自分のようで切なさが身を包んだ。

膝を抱えて音無く涙した。

「せんぱい」



撫でられた頭に残るさっきの感触を、
いつまでも感じながら。




「せんぱい―――おれは、」



手を握って立たせてくれたあの頃の感触を、
いつまでも思い返しながら。

















(あなたのことが)















めでたしめでたし、の、

その先






11/09/25  学恋2後の、後輩から見た世界。