「―――だめだ」

間抜けな声が耳を通して絡み付いてくる。それすらも今の自分にとっては針で刺されたように痛い。痛いんだ。小さく出来た傷がじくじくと―――大きく拡がってゆく。

「きもちわるい」

差し伸べられた手が毒で詰まった塊のように思えて、力一杯叩いて拒絶した。見開いた眼で見ないで欲しい。視線でさえ、心を手酷く刻む。やめてくれ、苦しい。

「はなれろ」
「綾」

軽々と名前を呼ぶのもやめろ、そう言いたくても言えない。
形式上、人間全てに名前が与えられ、個々を主張するのに用いるもので、使用するのは当然のことだ。……それでも、脳内で否定という言葉が隙間無く埋め尽くしている。
言い終える前にようやく出来た距離を掴み、地を蹴った。

「――――――」

聞くという命を封じ、三年生という縄張りにも近い場から逃げ出したかった俺は校舎の外へ出ることを選んだ。草で茫々に伸びた校舎裏で誰も居ないのを確認して、ほっと溜息をついてコンクリート壁に身体を預けた途端、迫り上がる嘔吐感に我慢できずマスクを外して胃液を逆流させた。油断した。

「ぐっう、う、えええっ、えっ…げほっ……ごほっ」

いつまで経っても慣れない上に食道がぴりぴりと焼ける。―――最悪だ。



「ああ…………きもちわるすぎて、いやだ」



がさ。



「綾小路」
「…きもちわるいっていったのに」



がさがさ。



「そんなの、君が勝手に思っただけだろう」
「……俺は、最初」



がさがさ。



「線を引いてた。本当は、誰とも付き合いたくなかったんだ」
「だろうね」

見ていて分かりやすかったから。そう言って、無遠慮に鋼鉄で張り巡らせた俺の領域へ侵入する。一歩一歩と物怖じもせず近付いてくる足音を聞く度に不安の波が押し寄せた。

「じゃあ、近寄らないでくれ」
「また吐きそうかい?」
「ああ、だから―――」

滲み出る脂汗を拭って顔を俯いた。それを実に不思議そうに感じ取った彼は首を傾げてゆっくり俺の声に重ねた。

「おかしいな、もう君を捕まえられる範囲にいるんだけど」




がさり。










「え?」










護るために

不可欠だと信じていた






10/02/11  (きもちわるかったのは、境界線がもう不必要という事実から)